あさお慶一郎(前衆議院議員 神奈川4区)

湘南の風

●[特集] 官僚の「無謬性」こそ最大の弊害だ   平成12年10月Voice

2003年01月19日 (日)

●[特集] 官僚の「無謬性」こそ最大の弊害だ
(平成12年10月Voice)


官僚主導から政治主導への転換が唱えられて久しい。
しかし、筆者が実際に国会で経験していることから考えると、まだまだ行政の実務は官僚が動かしているといっても過言ではないだろう。

官僚主導そのこと自体の是非とは別に、官僚組織主導ということから生じる「無謬性」に対する固執と、そのことが変化の速い現代にもたらす問題点について論じる。

官僚組織は基本的に自分たちには誤謬・誤りがないかのように振る舞い、反駁する意見や代案に対しては耳を貸さない。国会で官僚の答弁を聞いていると、問題は霞ヶ関の人間が解決するから外から余計な口出しをするなというような意識をいまだに根強く感じさせられる。
グローバル化の流れのもと全国の叡智がつねに求められる現在において、この「無謬性」に対する固執は、わが国行政の大きな足枷となる。以下、いくつか筆者が国会において政府に指摘をしてきた 具体例に即して議論を展開する。


<外部の提案を採用しない政府>
昨年来の長銀、日債銀の破綻とその売却処理にからむ問題、そしてそごう問題は、いくつもの具体例を提供する。政府は、いわゆる「そごう」問題に際し て国民のあいだで大きな不公平感、不満感が表明されたときに、その原因となった瑕疵担保条項を結ばざるをえなかった理由を、長銀を一時国有化した際の根拠 法規である金融再生法の不備のせいにしようとした。

あたかも、金融再生法が議員立法であり、しかも野党案をベースに与党でも若手のいわゆる政策新人類が関与して作成したからこのような不備があるの だ、当時の大蔵省が用意したもとの法案を採用していればこのようなことにはならなかったという態度を言外に示している。政府が金融再生法の不備として挙げ るのは、そこに二次損失に対する規定がない点、ロスシェアリングルールの考えが盛り込まれていない点である。

しかし、私は、昨年七月の参議院金融経済特別委員会審議の段階で、長銀の売却について「今回の件に関していえば、どう考えても追加の損失が発生する可能性がある。将来のためにも、ロスシェアリングルールを入れる方向性で法改正をしたらどうか」と提案した。

この提案に対して、当時の金融再生委員長である柳沢伯夫氏は、金融再生法は資産判定をベースとしているのでロスシェアリングの考えは採用しない、と答えた。
言い方を変えれば、政府は「われわれは資産判定を厳密に行い、きれいな債権のみを承継銀行に残すので譲渡後の二次損失は発生しない」ともとれるような発言をしていたのである。
この考え自体は金融再生法の趣旨に合致しており正しい。破綻した金融機関の資産から不良債権を取り除き、きれいな債権のみを残せば、瑕疵担保条項を付けずにもっと高い値段で長銀も日債銀も売却できたであろう。

だが、私には政府がすべて疑わしい債権を除去できるとは思えなかったので、ロスシェアリングを入れることを提案したのである。

結果がどうなったかといえば、ご案内のとおり、長銀譲渡後すぐに、ライフ、第一ホテル、そしてそごうと連続して破綻している。
そこで、ロスシェアリングをなぜ入れなかったのかとあらためて尋ねると、彼らは答えられない。現在の金融再生委員長である相沢英之氏は「野党が議員 立法としてつくった法案を、すぐに改正するのはどうかという判断もあったのではないか」という、理屈の通らない答えをした。
法律をよく改正するのに与党も 野党もないし、百歩譲って野党への配慮があったにしても、野党であるわれわれが改正を提案したのだからどう考えても理屈が通らない。

そもそも、政府が主張するようにロスシェアリングの規定が再生法にないからその考えを採用しなかったというのも、論理が通らない。それならば、瑕疵担保条項に関しても、そのような条項は再生法のどこにも盛り込まれていなかったのである。

長銀の譲渡契約は形式上、預金保険機構、長銀、そして買い手であるニューLTBCパートナーズの三者のあいだの私的契約の形をとっている。そして、 金融再生法に二次損失の定めがないことを理由に、民法の瑕疵担保の法理の一部を契約のなかに盛り込んでいる。しかし、瑕疵担保は契約において事前に譲渡後 の損失について特別に定めていない場合に援用されるものである。

民法は、契約において事前に譲渡後の損失について定めがない場合で、その損失の責めが売り手側に帰する場合に、契約に隠れたる瑕疵があるとして現契 約を解除するか、損害賠償を買い手が請求できるとしている。つまり、長銀の譲渡契約に特別に定めなくても、民法の法理に従って譲渡後の二次損失について政 府がロスシェアリング的に損害賠償をすることも可能であったのである。さらにいえば、民法は私人間で事前に二次損失について契約上分担割合を決めることを いっさい禁じていない。

したがって、金融再生法に規定がないからロスシェアリングの概念が盛り込めないのではなくて、譲渡契約のなかでこの考えを盛り込むこともできたのである。この点に関して、8月上旬の参議院の財政金融委員会において、法務省も民法解釈において間違いがないと認めている。

そもそもなぜロスシェアリングのほうが今回の瑕疵担保条項よりよいか簡単に述べておく。ロスシェアリングの考えはアメリカにおいて80年代後半から 90年代初頭の金融問題に際し使われた方式で、譲渡後の二次損失についてあらかじめ定めた割合で国と買い手が損失を分担するものである。二次損失が発生すればいくばくかの損を買い手も被るとなれば、損失を最小化しようと努力するインセンティブが働くのである。
しかし、現行の瑕疵担保のもとでは、たとえば15%の損失が発生したとすると、それを20%以上にして国に買い取らせようという方向にインセンティブが働くので、国と買い手の損失に対するベクトルが合致しないのである。

政府がこちらの提案を薄弱な根拠で取り上げなかった例はまだある。

たとえば、金融早期健全化法等に基づき政府は大手の金融機関の資本増強のために公的資金によって、それら金融機関が発行する優先株を引き受けてい る。これらの優先株と金融機関の株主がもつ普通株との関係について、私は減資を行う際には、普通株の消却を公的資金を財源とする優先株より先に行うこと を、優先株の引き受けに際しての条件とすべき旨提案した。

それに対して政府は、そのような条件を定めることは「株主平等」の原則からしてできないと答弁した。 しかし、政府が取得する優先株は議決権をもたないので、そのぶんだけ経営に対し距離がある。

減資は基本的に経営の失敗があった際に行われるものであり、私は経営責任に距離のある優先株を普通株と同列に扱うのは適当ではないと考えたので、商法の第一人者である東京大学の神田秀樹教授にも意見をいただいたところ、先生も私と同意見であった。 国会で神田先生の意見も踏まえながら再度政府に優先株 取引き受けの条件について問うと、政府側は次のように答えた。

「株主平等の取り扱いに関しては、浅尾議員がご指摘になった神田教授のようなご意見も有力に存在するだろうし、ほかにもそれに懐疑を呈する見解もある」(谷垣禎一国務大臣)

しかし、再三の私からの求めにもかかわらず、具体的に政府の見解をサポートするような学説は、その提唱者も含めて最後まで提示できなかったのである。

普通株と優先株をきちんと区別し、公的資金(税金)に支えられた優先株を保護して、普通株から先に減資していくのは、国民の財産を守ることにつながる。

商法222条第3項には、会社が何種類か別の株式を発行している場合には、資本減少の際に別の定めができるということが書かれている。株主総会で定款の変更を行えばすむことである。 にもかかわらず、「株主平等」ということを間違えて解釈し、普通株の消却を先に行おうとしないのは、どうにも理解できない。実際のところは、すでに 普通株も優先株も減資の際には同じに取り扱うということで銀行側と話をしたので、これを変えたくないというのが本音であろう。 あとから国会議員に「技術的」なことを指摘されたから変えたというのでは彼らの面子に関わるということかもしれない。 これなども、「無謬性」にとりつかれた官僚的思考の大きな弊害 だと思う。

<情報開示に対する意識の低さは深刻> 今後、政治家が政策決定の細部に関与しながら、その決定過程を公表することにより、政治の透明性を高めていくことがますます求められてくる。しか し、決定過程を透明にしようという積極的な動きは官僚機構からは見えてこない。 今回の長銀、日債銀の売却を例に行政の透明性に対する認識について、以下に述べる。

金融再生委員会は「透明性を高める」という理由で、長銀および日債銀の売却に際してフィナンシャル・アドバイザー(F/A)を雇った。国民の税金によって、長銀売却についてはゴールドマン・サックス、日債銀についてはモルガン・スタンレーがF/Aとして雇われた。申すまでもなく、彼らは財務のプロである。 であれば、高額の報酬を受けたであろう彼らが、プロとしての責任を今回の売却交渉に際して十分に果たしたかどうか、知っておく必要があるだろう。換 言すれば、国民負担が最小となるように、さまざまなケースを想定してアドバイスを政府にしたか検証する必要がある。

私は金融再生委員会に、長銀とゴールドマン・サックスとのF/A契約の内容の開示を求めた。 これに対して柳沢再生委員長は「ゴールドマン・サックスとのあいだで守秘義務がある」と答弁した。 しかし、ここでいう守秘義務とは契約上で定められたものではなく、国家公務員法により、相手の拒否している情報は出せないといっているだけのものである。

企業買収に携わる金融機関にとってごく普通の契約内容を開示することで、いったいどのような不都合が生じるのか、まったく不明である。 そして、日債銀とモルガン・スタンレーとのF/A契約開示について、私はモルガン・スタンレーの東京支店長テリー・ポルテ氏が「いつでも契約に関す る情報を提供したい」といっているという話を、友人経由で偶然にも耳にした。そこで、直接本人に確認をしたところ、彼は「間違いなく開示する」と答えた。

にもかかわらず、国会で政府側はこの件に関して「いつ開示するとはいっていない。いまは開示するのに適当な時期ではないと判断している」ので明らかにできない、と答弁したのである。

情報開示意識の低さは深刻で、昨年3月期の長銀や日債銀の決算短信には、その前の期まで出されていたアニュアルレポートや有価証券報告書に載ってい た営業経費の細目、役務取引の状況についての報告が記載されていない。一般の人々が関心を持つ資産の保有量、社宅の保有状況を示す数字もない。

一方、破綻金融機関の処理のために講じた措置の内容に関する計画書には、営業経費の削減計画なども詳細に書かれていた。計画に書かれていた内容が、報告にないというのはどういうことなのか。

<自治体ごとの1人当たり納税額がわからない> 問題は金融のみではない。今後地方分権の議論をするうえで、税源の地方移譲ということが大きな問題となってくることは間違いない。その際、移譲され る税源の最有力候補の一つが所得税であるとも申すまでもない。 であれば、いま現在自治体ごとに一人当たりでいくら所得税を国に納めているかのデータが必須 となる。

しかし、このデータがないのである。私は早急にかかるデータが取れるようにするべく提言したが、いっこうに政府は動こうとしない。 地方交付税交付金は、自治体間の財政を均衡にしようとする目的で設けられた。しかし、現在交付を受けていない都道府県は東京都のみである。47ある 都道府県で、一つしか地方交付税交付金をもらっていないという現状は、交付税制度の破綻を意味しているのではないか。つまり、地方自治体の税源がいま以上 に厚くなるよに税源の地方移譲を真剣に議論すべき時期に来ているのである。

多額の税金を納めているのに、自分の住む自治体に少額しか国から戻ってきていないという不満が、多くの都市住民のあいだにある。私が住む神奈川県の 県民一人当たりの地方交付税交付金と国庫支出金は、約37,000円と47都道府県中最も少ない。 同一人当たりの額が最も多い島根県(約430,000 円)と比較すると、じつに10倍以上の格差が生じている。これだけを見ると明らかに不公平とも思える。 しかし、もしかしたら、島根県の人のほうが、一人当たりははるかに多くの所得税を国に納めており、それがたんに戻ってきているだけかもしれない。あるいは、逆に、神奈川県民のほうがはるかに多くの税金を国 に納めているとすれば、表面の10倍の格差以上に不利な取り扱いを神奈川県民は受けているといえることになる。いずれにせよ、いくら国から税金が地方自治 体に戻ってきているかのデータはあるものの、その前段のいくら国に払っているかのデータはないのである。

給付と負担の割合を知るうえでどうしても欠かせない、自治体ごとの一人当たり所得税納税額について大蔵省に問い合わせたところ、大蔵省側は、「申告 納税の場合、納税申告書は納税者控-国税用-市町村用の3連式になっているので、市町村のほうで集約してもらったらどうか」「源泉徴収分については、たと えば神奈川県に住んでいる人でも、勤め先が東京都の場合があり、その場合、源泉徴収義務者の所在地と納税者の居住地とが合致しなくてデータを把握できな い」などという理由で、これを拒否したのである。

しかし、各納税者のデータがそれぞれコンピュータ内に登録されているのならば、住所にフラッグ(基準)を立てて検索し、集計するのはけっして困難な作業ではないはずだ。

繰り返しになるが、現在、地方分権と税財源の移譲が、政治の重要な検討課題になっている。そのなかで、所得税の移譲のシュミレーションを行おうとした際に、ある自治体の住民が1人当たりいくらの税金を納めているかは、押さえておくべき基礎データだ。 国税と地方税の比率を考え、国家財政の運営を適切にはかるうえで、1人あたりの納税額は多少のコストはかかっても明らかにしなければならない数字 だ。それをいまだに算出していないのは、何かしらデータを出したくない理由があると疑われても仕方がない。何より、税務署側のコストだけを強調する姿勢か らして、彼らが納税者のほうを向いていないことがわかる。税が民主主義の基本であることを考えるとこれは重大な問題だ。

<結果に対し責任をとり、とらせる政治を> これらは一例にすぎないが、私が真に恐れているのは、変化の激しい時代にあって、役所のなかだけで物事を決めていこうとする官僚の論理によって、国の考えや方向性が固まってしまうことだ。 世界中がドッグイヤー(犬の年齢)のスピードで変化しているなか、日本の政治だけが変化についていけなくなる。情報がオープンである市場経済の世の中でディスクロージャーを拒否するなど、もってのほかである。 IT時代の変化に対応する政治が必要とされる。 その意味で、たとえば時限的な行政委員会である金融再生委員会は、その試金石として有効に活用しなければならなかったはずだ。さまざまな分野の専門 家が委員として入るのはよいが、委員の力だけでは限界がある。結果として、事務局員を多数派遣している大蔵省の考えに抑えられてしまった。 大蔵省の職員は 1万人以上いるだろうが、その組織のなかに大蔵省によって採用された人以外の人が、大臣と2人の政務次官のたった3人しかいない現状はいかがなものか。どうしても組織の論理が勝ってしまうのではないか。やはり、局長に相当するような重要ポストにまで、官僚以外の人が入り、かつ任期と権限そして責任を明確にして行政を運営する必要があろう。

日本は、人的関係を重視する国から結果責任を求める国に変わるべき時期を迎えている。90年代の10年間で、企業はたいへんなリストラを行いながら も、なおなかなか収益が上がらず、株主に十分な配当を行なえていない。 にもかかわらず役員の誰も責任をとろうとしない。 これまでの、日本社会が、企業に結 果責任を問うてこなかったからである。

同様に、今後は政治にも結果責任を求めなければならない。そのためには現行の大臣の任期は短すぎる。3年程度の任期のあいだに「これだけは成し遂げる」という大きな目標を掲げさせて、その達成を1年後、2年後と審査しなければ、誰も結果に責任を負わず、たんに世の中の流れに合わせて行政をするだけになってしまう。 そして政治家が掲げた目標達成に向けて役所を動かすことができるように、せめて局長クラスくらいまでは外部の民間人も含めて任用できるようにするべきである。

もちろん、そのためには社会全体で労働市場の流動性を高める必要があるが、そうして初めて、選挙で掲げた公約を達成できなかった場合に 結果責任を問うていく政治家が実現できるのである。

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